そのうち笑い話になるさ

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反乱のボヤージュ

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人生を変えられた作品、が、あるだろうか。

自分にとってのそれは連続ドラマ部門なら「新・俺たちの旅」であり、単発ドラマ部門なら「反乱のボヤージュ」である。急にそんなことを思い出したのは、ある本を読んだことがきっかけだ。

六人の作家が選ぶ、主に十代の若者へ向けた読書案内。
図書館で、たまたま手に取って目次を読み、思わず息を飲んだ。

作家のひとりは、朝井リョウ氏。確か、映画になって公開された作品が話題の売れっ子作家で、私も何冊か読んだことがある。そんな朝井氏の紹介した本の一冊が、まさしく、野沢尚反乱のボヤージュ」であった。逸る気持ちで頁をめくり、絶句した。そこには、2001年当時に私が感じた気持ちと、寸分違わぬ心証が惜しみなく綴られていたのだ。あの作品から、こんなにも同じ感情を受け取った人がいてくれたのか、と、その文章を読んでから数十分間、私はその場から動けなかった。

反乱のボヤージュ」は大学の自治寮を舞台に、寮生たちと、舎監をはじめとする大人たちとの交流を描いた作品だ。テーマや筋書きに強く興味がわき、当時の私もテレビにかじりつくようにしてドラマ*1を見ていた。やはり私も浅井氏のように、何か大きな力に立ち向かっていくことを夢見ていたのだと思う。大人というものを嫌悪しつつも、名倉さんのような大人に憧れた。若者たちを駆り立てた背景をもっと深く知りたくなって、ドラマの終了と同時に、父親にせがんで遠くの書店まで車を走らせてもらったことは、今でもよく覚えている。

彼らが学生寮を通じて守ろうとしたもの、闘ったものとは何なのか。
舎監としてやって来た名倉さんが教えてくれたものは何か。
大学という場で、学問以外に学ぶべきは何か。
大人とは何か、父性とは何か。

勿論、当時たかだか十代前半だった私に、ドラマや小説だけで内容のすべてを理解することはできなかった。しかし自分が今、暮らしている、この世界の見方を広げるという意味では、充分な影響を与えてくれた作品だ。物語の最後、主人公の薫平が動乱の世界を360°見渡す場面がある。私もこのシーンを、今でも、日常のあらゆる場面で模倣している。まさか自分以外にもこの作品を思い返して、真似してみている人がいるとは……、うまく言葉にならないが、とにかく、私は、うれしかったのだと思う。

ドラマでは、寮生“坂下薫平”を岡田准一、舎監“名倉憲太朗”を渡哲也が演じていた。他の配役もほとんどが小説のイメージと寸分違わぬ絶妙なもので、何度見ても唸らされる(ただし、司馬さんは除く*2。)傍観者という立ち位置が通例で、真面目で弱くて強かで、父性を知らず求めるクンペーは、あの時、あの21世紀初頭の、あの時期の岡田さんにしか出来ない、あまりにも見事すぎるハマり役だった。名倉さんと薫平が焼き芋をする場面の再現度だけでも一見の価値がある。

この作品と、恩田陸の「ネバーランド」に憧れて、繰り返し読み続けた結果、私は地元から離れた国立大学に入学を決意した。勿論、仲間たちと輝かしき寮生活を送るためだ。しかし立て籠りもせず、魔女もいない寮生活の実態は、ちっともドラマチックじゃなかった笑。弦巻寮の寮生たちより歳を取った現在の自分は、かつて自分が思い描いていた理想の大人からは程遠い存在で、ほとほと悲しくなる。それでも、いつかは、ひょっとして。いつだって、もう少し先を明るく考えて生きるのは悪くない。

反乱のボヤージュ (集英社文庫)

反乱のボヤージュ (集英社文庫)

15年経ってそんなふうに思い返せる作品があることを、私は、誇らしくも幸せに思っている。

*1:2001年10月6日・7日、二夜連続のSPドラマとして、脚本家である著者自らのシナリオにより制作された。

*2:台本段階では原作通り標準語だったため、やっしーから何らかの打診があったのかもしれない。あと、配役未定だった天ちゃん役の横山裕も微妙だったか。麦太くんで初めて知った堺雅人が、ここまで出世するとは思わなかった。